FUJI ROCK ’26で、最も議論を呼んだステージのひとつがMassive Attackだった。
圧倒的なサウンド、巨大な映像演出。
しかし、多くの人がSNSで語ったのは音楽ではなく、ステージに映し出された政治的メッセージだった。
「音楽に政治を持ち込むべきではない。」
「いや、表現者には社会について発言する自由がある。」
ライブが終わったあとも、議論は鳴り止まなかった。
だが、今回の出来事を理解するうえで忘れてはならないことがある。
Massive Attackは、今回突然政治的なメッセージを発信したバンドではないということだ。
彼らは長年にわたり、戦争、人権、気候変動、監視社会などについて発言を続けてきた。
音楽だけを届けるのではなく、自分たちが生きる社会そのものを作品の一部として表現してきた。
だから今回のFUJI ROCKでの演出も、彼らにとっては「いつものMassive Attack」だったのだろう。
一方で、「ライブくらい現実を忘れたい」という気持ちも理解できる。
音楽は日常から解放されるための場所でもある。
政治や戦争を持ち込まれたくないという考えも、決して間違いではない。
しかし、歴史を振り返れば、音楽は常に社会とともに歩んできた。
反戦歌があり、プロテストソングがあり、パンクは体制への怒りを叫び、ヒップホップは差別や貧困を歌ってきた。
音楽は娯楽であると同時に、その時代を映す文化でもある。
だから、「音楽に政治を持ち込むな」という言葉も、一度立ち止まって考えてみる必要がある。
本当に、音楽と政治は切り離せるのだろうか。
恋愛を歌えば文化で、戦争を歌えば政治なのか。
社会への疑問を表現した瞬間、それは音楽ではなくなるのだろうか。
もちろん、すべてのアーティストが政治を語る必要はない。
何も語らないことも、一つの表現である。
そして、社会について語ることもまた、表現の自由の一部だ。
大切なのは、その主張に賛成することではない。
反対する自由もあれば、違和感を覚える自由もある。
表現する自由と、それを受け止め、批判し、議論する自由。
その両方があって初めて、文化は成熟していく。
Massive AttackがFUJI ROCKで示したものは、「この考えを受け入れろ」という答えではなかったのかもしれない。
むしろ、「あなたは、この世界で起きている出来事を見て、何を考えるのか。」
その問いを、音楽を通して観客へ投げかけたのではないだろうか。
音楽は世界を変えられるかどうかは分からない。
しかし、人の心を揺さぶり、考えるきっかけを与える力は、今も確かに持っている。
だからこそ、あの夜のステージは、単なるライブではなく、一つの社会的な出来事として、多くの人の記憶に残ることになったのだろう。
