サックスの音を聴いているはずなのに、サックスを聴いている気がしない。
シンセサイザーのようでもあり、人間の声のようでもあり、古いテープから偶然発掘された正体不明の音源のようでもある。
Sam Gendel(サム・ゲンデル)の音楽を初めて聴いたときに感じるのは、そんな奇妙な感覚だ。
彼は一般的にはサックス奏者、あるいはジャズ・ミュージシャンとして紹介される。
しかし、実際にその音楽を聴けば、「ジャズ」という一言ではほとんど説明になっていないことに気づく。
ジャズ、アンビエント、電子音楽、R&B、ヒップホップ、サイケデリック、即興音楽。
さまざまな音楽の断片が存在しているにもかかわらず、どこか一つのジャンルに収まることがない。
では、Sam Gendelとは一体何者なのか。
10歳で出会った50ドルのサックス
Sam Gendelとサックスとの出会いは10歳の頃まで遡る。
店のショーウインドウに置かれた金色の楽器を見た瞬間、「自分はサックスを演奏する」と直感したという。
その後、母親に車を出してもらい、カリフォルニアを約2時間走って中古のサックスを買いに行った。
価格は50ドル。
売り主は引退した警察官だった。
後にGendel自身が振り返ったように、それは偶然というより、最初から決まっていた出来事のようだった。
しかし面白いのは、そこから彼が典型的な「ジャズ・サックス奏者」の道を歩まなかったことだ。
むしろ彼は、サックスという楽器が本来持っているイメージから少しずつ離れていった。
サックスを「サックスではない何か」にする
Sam Gendel最大の特徴は、その音色にある。
一般的なジャズでは、サックス本来の音色や奏者のフレーズ、アドリブ、演奏技術などが前面に出ることが多い。
Gendelはそこから少し違う場所にいる。
エフェクトや電子機器を通して音を加工し、ときにはサックスであることすら分からないほど変形させる。
息だけが漂っているような音。
古いシンセサイザーのような音。
人間の声のような音。
壊れかけた電子機器から漏れているような音。
そして、その中から突然現れる美しいメロディ。
彼にとってサックスは、決められた音を鳴らすための楽器というより「音を探すための装置」に近いのかもしれない。
だからSam Gendelを理解するうえで重要なのは、「サックスがどれだけ上手いか」だけではない。
むしろ、
「サックスはサックスらしくなければならないのか?」
という問いそのものにある。
ギター、声、電子機器
そしてGendelはサックスだけを演奏する人物でもない。
ギターを弾き、歌い、電子機器を操作し、ループを作り、プロデューサーとして音そのものを組み立てる。
彼の作品を聴いていると、「何の楽器を担当している人なのか」という分類自体があまり意味を持たなくなってくる。
必要ならサックスを使う。
必要ならギターを使う。
必要なら声を使う。
必要なら音を加工する。
重要なのは楽器ではなく、最終的にそこにどんな音が存在するか。
この姿勢がSam Gendelの音楽をジャンルから自由にしている。
Sam Wilkesとの出会い
Sam Gendelを語るうえで欠かせない人物が、ベーシスト/マルチ・インストゥルメンタリストのSam Wilkesだ。
二人が2018年に発表した『Music for Saxofone and Bass Guitar』は、Gendelの名前を知るうえで最も重要な作品の一つである。
タイトルは驚くほど単純だ。
「サックスとベースギターのための音楽」。
実際、基本となる編成もその通り。
Gendelがアルトサックスと電子機器。
Wilkesがベースギターと電子機器。
たった二人。
ところが実際に聴いてみると、とても二人だけで演奏しているとは思えない。
サックスはシンセサイザーのように変形し、ベースは単なる低音の伴奏ではなく、メロディやコード、リズムそのものを作り出す。
そこへループとエフェクトが加わり、小さな編成から奇妙なほど広い空間が生まれる。
4トラックのカセットレコーダーから生まれた音
『Music for Saxofone and Bass Guitar』は、その録音方法も面白い。
作品に収録された音源は、2017年11月から2018年2月にかけてロサンゼルスで行われた演奏を記録したもの。
使用されたのはMarantz PMD-720という4トラックのカセットレコーダーだった。
つまり、巨大なスタジオで完璧な音を作り込んだアルバムではない。
その場所、その瞬間に生まれた演奏を録音する。
多少の粗さも残す。
そして、その偶然性まで含めて作品にする。
この感覚はGendelの音楽全体にも通じている。
「完成された完璧な音」を作るというより、その瞬間にしか存在しない面白い音を捕まえる。
だから彼の音楽には、どこか古い録音物を偶然発見したような質感がある。
まず「BOA」を聴いてほしい
Sam Gendelを知らない人に最初の一曲を選ぶなら、『Music for Saxofone and Bass Guitar』の冒頭曲「BOA」は非常に良い入口だ。
ゆったりしたベース。
その上を漂うサックス。
音数は決して多くない。
派手なソロもない。
それなのに、一度聴くと妙に耳に残る。
ジャズのようでもあり、アンビエントのようでもあり、ヒップホップのビートからドラムだけを消したようにも聞こえる。
ジャンルを決めようとすると逃げていく。
その曖昧さこそ、GendelとWilkesの音楽の魅力だ。
『Fresh Bread』──52曲から見える頭の中
Sam Gendelの創作方法をさらに知りたいなら、2021年の『Fresh Bread』は避けて通れない。
収録曲は、なんと52曲。
2012年から2020年までの録音をまとめた巨大な作品集である。
普通なら「未発表音源集」や「アウトテイク集」として整理されそうな規模だ。
しかし『Fresh Bread』を続けて聴いていると、別の感覚が生まれてくる。
完成された曲。
短い実験。
ライブ録音。
ループ。
即興。
ビート。
奇妙な歌。
美しいメロディ。
それらがほとんど同じ価値を持つものとして並んでいる。
Gendelにとって、完成品とスケッチの境界はそれほど重要ではないのかもしれない。
音楽は完成させて終わるものではなく、常に試し続けるもの。
『Fresh Bread』はアルバムというより、Sam Gendelの頭の中にある巨大なスケッチブックを覗いているような作品だ。
ジャズの名曲も、そのまま演奏しない
Gendelの面白さがよく分かる作品として、2020年の『Satin Doll』もある。
ジャズ・スタンダードを扱った作品だが、いわゆる「名曲を美しく演奏しました」というカバー・アルバムではない。
元の楽曲を素材として分解し、別の形に組み直していく。
そして2023年の『Cookup』では、その方法を1990年代から2000年代初頭のR&Bへ向けた。
Aaliyah、Ginuwine、Beyoncéなどの楽曲を取り上げながら、原曲を忠実に再現するのではなく、Sam Gendelの音楽へと変換する。
ここにも彼の姿勢がはっきり表れている。
彼にとって既存の曲は「守るべき完成品」というより、新しい音を発見するための素材なのだ。
「ジャズ」と呼ぶには少し違う
Sam Gendelの音楽はしばしばアンビエント・ジャズや実験的ジャズとして語られる。
確かに間違いではない。
即興性という意味ではジャズに近い。
空間の使い方ではアンビエントに近い。
音の加工方法では電子音楽に近い。
反復するリズムにはヒップホップ以降の感覚もある。
しかし面白いのは、それらを意識的に「融合」しているように聞こえないことだ。
「ジャズとアンビエントを融合しました」という分かりやすいコンセプトではない。
最初から境界線など存在していなかったように演奏する。
だからSam Gendelの音楽は新しい。
技術を見せないという技術
Gendelは非常に高い演奏技術を持っている。
しかし、彼の音楽を聴いて「超絶技巧だ」と感じる瞬間は意外と少ない。
それは技術がないからではない。
むしろ逆だ。
技術を見せること自体を目的にしていない。
高速でフレーズを吹くこともできる。
複雑な演奏もできる。
しかし、必要なら一音だけ吹く。
必要なら同じフレーズを繰り返す。
必要なら加工して、サックスの音そのものを消してしまう。
「何ができるか」ではなく、
「この曲には何が必要なのか」。
そのために技術を使っている。
これは簡単そうで、実は非常に難しい。
Sam Wilkesとの関係は続いている
GendelとWilkesの関係は『Music for Saxofone and Bass Guitar』だけで終わっていない。
2021年には続編となる『Music for Saxofone and Bass Guitar More Songs』を発表。
さらに2024年には『THE DOOBER』を発表している。
『THE DOOBER』ではGendelがCメロディ・サックス、WilkesがFender P-Bassを演奏。
2022年から2023年に日本とロサンゼルスで録音された。
最初の作品から何年経っても、二人は同じ組み合わせを繰り返しているのではない。
編成、音色、レパートリーを変化させながら、「サックスとベースだけでどこまで行けるのか」を更新し続けている。
なぜSam Gendelは現代的なのか
今はSpotifyやApple Musicを開けば、ジャズの次にヒップホップ、その次にアンビエント、その次にアフリカ音楽を聴くことができる。
ジャンルは棚ではなくなった。
Sam Gendelの音楽は、そんな時代の感覚を象徴しているように思える。
ジャズを守ろうとしているわけではない。
ジャズを壊そうとしているわけでもない。
そもそも、その二択に興味がないように見える。
良い音があれば使う。
面白い偶然が起きれば残す。
サックスがシンセサイザーのようになっても構わない。
R&Bを演奏してもいい。
数分の曲でもいい。
数十秒のスケッチでもいい。
そうやって作られた音楽を後から分類しようとすると、ジャズ、アンビエント、電子音楽、R&Bといった複数の名前が必要になる。
しかし本人にとっては、全部ただの「音楽」なのだろう。
初めて聴くなら、この順番
Sam Gendelの作品は数が多いため、最初から全部追う必要はない。
まずSam Wilkesとの『Music for Saxofone and Bass Guitar』。
その中でも「BOA」。
ここでGendelのサックスの音が好きになったら、アルバム全体を聴く。
次に『Music for Saxofone and Bass Guitar More Songs』。
さらに彼個人の世界へ入りたければ『Fresh Bread』。
ジャズ・スタンダードをどう変形するのか知りたければ『Satin Doll』。
R&Bとの関係を知りたければ『Cookup』。
そしてGendelとWilkesの現在地まで追いたければ『THE DOOBER』。
この順番なら、Sam Gendelという音楽家の輪郭が少しずつ見えてくる。
サックス奏者ではなく「音を探している人」
Sam Gendelを「現代ジャズのサックス奏者」と紹介することは間違いではない。
しかし、それだけでは彼の面白さの半分も説明できない。
彼がやっているのは、新しいサックス奏法を発明することだけではない。
サックス、ギター、声、電子機器、録音、偶然、即興。
そのすべてを使って、まだ名前のついていない音を探している。
だから彼の作品には奇妙な感覚がある。
古いようで新しい。

